私と発達障がい体験記

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発達障がい
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はじめに

今からお話することは私個人の体験に基づくものであり、すべての発達障がい当事者の方に当てはまるわけではないことをご理解いただければ幸いです。

母の写真を見ながらの思い

亡き母の遺品を整理している時、偶然にも母の写真が出てきました。その写真をじっと見つめていると、「私の発達障がいを、母はどう感じていたのだろう?」という疑問が頭をよぎりました。幼い頃から発達障がいがあったことを後になって知った私ですが、母はそのことをどんなふうに受け入れていたのか、どのように向き合っていたのかと考えずにはいられません。私が成長する過程で母はどんな思いで私を見守っていたのか、その心情を思い巡らさずにはいられないのです。

生まれた日の記憶

私が生まれた日は大雪でした。父はタイヤにチェーンを巻き、破水した母を病院に連れて行きました。そして、母の出産が終わる前に仕事へ戻ったそうです。両親にとって、私の誕生は結婚10年目にして授かった待望の赤ちゃんでした。性別に関わらず、五体満足で生まれてくることを強く望んでいたことでしょう。

しかし、私の出産は決して順調ではありませんでした。母は陣痛が弱く、さらに私は当時の赤ちゃんにしては大きめで、頭がなかなか出てこなかったのです。母と私の命が危険にさらされる可能性があったため、医師は鉗子分娩という手段を選びました。この方法により私は首にたんこぶができた状態で生まれてきましたが、幸いにも早期に治療が行われたことで、退院後半年ほどで完治しました。

幼少期の不思議な行動

その後数十年を経て、私は発達障がいがあることが正式に判明しました。幼少期には全く気づかれなかった障がいが、私の人生を大きく左右するものとなっていたのです。

私の幼少期は、両親や祖父母、叔父や叔母に可愛がられ何不自由なく育ちました。幼稚園に入園するまでは、外から見れば順風満帆な家族に見えたことでしょう。しかし、幼稚園に入ってからは「問題児」としての扱いを受けるようになりました。写真を見返すと、他の園児たちが楽しそうに笑っている中で私だけが泣いていたり、集合写真などであっかんべーをしていたりいわゆる「変わった子」として見られていました。

最近幼稚園時代の先生から聞いた話では、ある式典で私は来賓の前に行きマイクを取り上げて話し始めたことがあったそうです。その先生によれば、「お母さんには色々話していたのよ」とのことでしたが、母からそのような話を聞いたことは一度もありません。

小・中学校時代の困難

小学校に入ると問題はさらに深刻になりました。私は「片づけができない」「掃除ができない」「忘れ物をする」など、日常生活の基本的なことに苦労し始めました。また学校でのいじめにも遭い、特に6年生の頃には給食の食器を投げつけられることがありました。私は泣きながら担任の先生に現状を訴えましたが、適切な対応をしてもらうことはできませんでした。

中学校でも状況は変わらず、毎日顔を合わせるとクラスメートからは、「あっち行け!!」などと言われました。私は「何もしていないのに、なぜこんなにも嫌われるのだろう?」と悩みましたが、その理由は全くわかりませんでした。周囲との違いが次第に自分を苦しめるようになっていきました。

勉強面でも多くの苦労を経験しました。私が唯一得意だったのは音楽で、他の科目はまったく勉強する気になれませんでした。母が心配して塾に通わせてくれたものの、成績は全く伸びませんでした。担任の先生は「他の科目も音楽のように点数が取れればいいのに」と何度も言いましたが、私にとってそれは難しいことでした。

高校・大学生活と職場での苦悩

高校は、音楽科がある学校を選びました。好きな音楽を学べることは嬉しかったものの、人間関係には悩まされました。喧嘩が絶えず、また特定の先生からは嫌われているように感じました。大学でも、同級生からの冷たい態度や嫌な顔に悩まされました。友人はいましたが、親友と呼べる人は一人もいませんでした。

大学を卒業後、ピアノ教師やパソコンインストラクター、派遣社員として働きましたが、どの仕事も長続きしませんでした。33歳で結婚しましたが、36歳の時に姑からのいじめが原因でパニック状態に陥り、「統合失調症」と診断され、入院治療を受けました。

その時、夫は「何をしてもいいから働かないでほしい。人の迷惑になるから」と私に言いました。非常に悲しい思いをしました。結局姑の認知症が進行し、介護の負担が重くなったため夫に泣きつき姑をグループホームに入居させました。

その後、私は父が亡くなって一人になった母と一緒に暮らすために、夫と実家に戻りました。主治医が変わり、病名も「双極性障がい」に変更されました。その後発達障がいの検査を受けることになり、46歳の時にADHD(注意欠如・多動性障がい)と自閉症スペクトラム障がいの診断を受けました。これにより発達障がいの薬が処方され、臨床心理士によるカウンセリングも受け始めました。また将来の生活を見据えて障害者年金の申請を行い、受給が開始されたときにはホッとしました。

母に対しての葛藤と離婚を経て和解へ

発達障がいについてインターネットや本で調べ始めた私は、鉗子分娩が原因で発達障がいを引き起こす可能性があることを知りました。すると、「これが原因で私はいじめられてきたのだ」と母に対する強い恨みが生まれました。それまで仲の良かった親子関係がこのことをきっかけに壊れ、毎日喧嘩が絶えなくなりました。母は「障がいのことを言うな!あんたみたいな人はたくさんいる!」と言い、私が障がいについて話すことを避けようとしました。私はその態度にいら立ち衝突が続きました。

ついには夫も耐えきれず家を出て行き、私たちは離婚しました。彼もまた、私の障がいに向き合おうとしませんでした。

しかし離婚後は薬の効果もあり、母との喧嘩が次第に少なくなりました。その後、就労継続支援A型での仕事を始めるため、計画相談員さんに相談しながら少しずつ生活を立て直しました。家事が苦手な私はヘルパーさんにも手伝ってもらうようになりましたが、母は「女が二人いるのに、ヘルパーなんて恥ずかしい」と言っていました。しかし母が病気で入退院を繰り返すようになり、ヘルパーさんの支援がますます必要になりました。

母が亡くなった時、私の心は崩れました。あれほど憎んでいたはずなのに、喪失感は計り知れないものでした。食欲もなくなり、体調も悪化しました。お風呂に入る時はヘルパーさんに見守ってもらい、薬の管理も訪問看護師さんに頼るようになりました。多くの人に支えられながら、何とか日常を過ごしていました。

現在と未来への思い

現在私は56歳。両親も亡くなり、頼れる親戚もいません。しかし心機一転とある場所に引っ越し、知人の助けを借りながら生活しています。現在は就労継続支援A型の在宅勤務に従事し、週1回リモートや事業所に出向き、担当支援員さんとの面談を行っています。計画相談員さんやヘルパーさん、訪問看護師さんたちの手助けもあり、安心して生活しています。

また、人間関係では「適度な距離感を保つこと」や「他人の価値観を尊重すること」などを心掛けるようになりました。少しずつですが、人間関係も良好にたもつことができるようになってきていると感じています。

残念なことといえばもう少し若かったら就労移行支援事業所に通い、一般企業の障害者枠で働くチャンスを得たかったという思いがあります。その希望は叶いませんでしたが最近インターネットでいろいろな事業所を調べたところ、各事業所にはそれぞれ独自の特徴がありました。その中で、「ここなら紹介したい」と思う事業所も見つかりました。これからも自分の経験を発信し、同じような障害を持つ方々に少しでも役立つ情報を届けられるようにしていきたいです。

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